約 337,895 件
https://w.atwiki.jp/pikunoku/pages/35.html
現代日本的な世界観を持つ。(結果としてそうなっている、というだけで、ルール上は特に国の設定はされていない。) 中世=宗教・立場的な形での集団プレイだとすると、現代はあくまでも個人プレイ的に駒を進めているような参加傾向にある。 絶讃編集者募集中。 種族別キャラクター一覧などをここで作るといいのかな? 吸血鬼 キャラクター名 性別 年齢 身長 所属組織 禁止 備考 粛清人 キャラクター名 性別 年齢 身長 所属組織 禁止 備考 聖贄 キャラクター名 性別 年齢 身長 所属組織 禁止 備考 コピペ用(使ってください) キャラクター名 性別 年齢 身長 所属組織 禁止 備考
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/27512.html
ここを編集 ■PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__ 作画監督補佐(角田桂一、小谷杏子、二宮壮史、神谷美也子、降旗秀吉、安食圭、竹本佳子、本田真之、樋上彩、門倉世央子、中森晃太郎、渡邉八恵子、森田史、高橋成之、田畑昭、沼津雅人、杉本道明、川村裕哉、春川彩子、上海樊特姆動画制作有限公司と共同) ■PSYCHO-PASS サイコパス 3 キーアニメーター(中村悟、阿部恒、中村深雪、古川良太、諸貫哲朗、長谷川和世、幸田直子、市川美帆、竹内知海、新野量太、角田桂一、常木志伸と共同) 作画監督 7(中・伊・幸・長・小・竹・市・篠・中・阿・新・角・中・安・塚・嵩・下・恩) 8(中・中・角・古・諸・竹・市・幸・長・小・新・伊・松・李・中・恩) 作画監督補佐 3(角・松・二・中・小・片・藤・沼) ■PSYCHO-PASS サイコパス 3 FIRST INSPECTOR キーアニメーター(中村悟、阿部恒、中村深雪、古川良太、諸貫哲朗、長谷川和世、幸田直子、竹内知海、新野量太、角田桂一、常木志伸と共同) 作画監督 3(本・中・小・伊・長・幸・矢・イ・篠・中・竹・K・C) ■憂国のモリアーティ 作画監督 5(奥) 7(角・中・奥・藤) 11(奥・太) ■憂国のモリアーティ (2クール目) 作画監督 15(藤・吉) 18(市) 24(奥・下・角・高・新・中・藤・平・鈴) ■劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE 作画監督(大久保徹、松竹徳幸、竹内知海、角田桂一、中村深雪、中村悟、新野量太、鈴木俊二、幸田直子、長谷川和世、小谷杏子、本田真之、黄瀬和哉と共同) ■関連タイトル Blu-ray PSYCHO-PASS サイコパス 3 Vol.1 初回生産限定版 rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 053df7e0.7c451bd1.0c852203.190c5695 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId=0;rakuten_size= 468x160 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= on ;rakuten_auto_mode= on ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ; 随時更新! pixivFANBOX アニメ@wiki ご支援お待ちしています! ムック本&画集新刊/個人画集新刊/新作Blu-ray単巻/新作Blu-ray DVD-BOX アニメ原画集全リスト スタッフインタビューwebリンク集 最新登録アイテム Switch ゼルダの伝説 Tears of the Kingdom Switch 世界樹の迷宮Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ HD REMASTER Switch ピクミン 4 大友克洋 Animation AKIRA Layouts Key Frames 2 小説 機動戦士ガンダム 水星の魔女 1 ONE PIECE FILM REDデラックス・リミテッド・エディション 4K ULTRA HD Blu-ray Blu-ray 劇場版 ソードアート・オンライン -プログレッシブ- 冥き夕闇のスケルツォ 完全生産限定版 Blu-ray 映画『ゆるキャン△』 Blu-ray 【コレクターズ版】 Blu-ray ウマ娘 プリティーダービー 4th EVENT SPECIAL DREAMERS!! Blu-ray 天地無用!GXP パラダイス始動編 Blu-ray第1巻 特装版 天地無用!魎皇鬼 第伍期 Blu-ray SET 「GS美神」全話いっき見ブルーレイ Blu-ray ソードアート・オンライン -フルダイブ- メーカー特典:「イベントビジュアル使用A3クリアポスター」付 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 5th Live! 虹が咲く場所 Blu-ray Memorial BOX 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち Blu-ray BOX 特装限定版 地球へ… Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 神風怪盗ジャンヌ Complete Blu-ray BOX HUNTER×HUNTER ハンター試験編・ゾルディック家編Blu-ray BOX BLEACH Blu-ray Disc BOX 破面篇セレクション1+過去篇 完全生産限定版 MAZINGER THE MOVIE 1973-1976 4Kリマスター版 アニメ・ゲームのロゴデザイン シン・仮面ライダー 音楽集 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー 完全版 EPISODE No.1~No.98 MOVIE リスアニ!Vol.50.5 ぼっち・ざ・ろっく!号デラックスエディション ヤマノススメ Next Summit アニメガイド おもいでビヨリ アニメ「魔入りました!入間くん」オフィシャルファンブック 『超時空要塞マクロス』パッケージアート集 CLAMP PREMIUM COLLECTION X 1 トーマの心臓 プレミアムエディション パズル ドラゴンズ 10th Anniversary Art Works はんざわかおり こみっくがーるず画集 ~あばばーさりー!~ あすぱら画集 すいみゃ Art Works trim polka-トリムポルカ- つぐもも裏 超!限界突破イラスト&激!すじ供養漫画集 開田裕治ウルトラマンシリーズ画集 井澤詩織1st写真集 mascotte 鬼頭明里写真集 my pace 内田真礼 1st photobook 「まあやドキ」 進藤あまね1st写真集 翠~Midori~ 声優 宮村優子 対談集 アスカライソジ 三石琴乃 ことのは 亀田祥倫アートワークス 100% 庵野秀明責任編集 仮面ライダー 資料写真集 1971-1973 金子雄司アニメーション背景美術画集 タローマン・クロニクル ラブライブ!サンシャイン!! Find Our 沼津~Aqoursのいる風景~ 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版] 梅津泰臣 KISS AND CRY 資料集 安彦良和 マイ・バック・ページズ 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』編 氷川竜介 日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析 Blu-ray THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 10th Anniversary Celebration Animation ETERNITY MEMORIES Blu-ray おいら宇宙の探鉱夫 ブルーレイ版 Blu-ray 映画 バクテン!! 完全生産限定版 アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~ Blu-ray BOX 初回生産限定版 はたらく細胞 Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 Blu-ray 長靴をはいた猫 3作品収録 Blu-ray わんぱく王子の大蛇退治 Blu-ray 魔道祖師 完結編 完全生産限定版 魔道祖師Q Blu-ray Disc BOX 完全生産限定盤 にじよん あにめーしょん Blu-ray BOX 【特装限定版】 Blu-ray 鋼の錬金術師 完結編 プレミアム・エディション Blu-ray付き やはりゲームでも俺の青春ラブコメはまちがっている。完 限定版【同梱物】オリジナルアニメ Blu-ray「だから、思春期は終わらずに、青春は続いていく。」
https://w.atwiki.jp/senkura/pages/16.html
現代root page
https://w.atwiki.jp/hakodate-buffet/pages/9.html
概要 和食・洋食・中華のバイキングは、種類豊富に楽しめます。 施設名 : 1F レストラン「ローズ」 営業時間 : 11 30~14 30(オーダーストップ14 00) 料金 : 料金 大人1050円(税込) 小学生525円(税込) 幼児無料 和食・洋食・中華のバイキング形式でございます。シェフ自慢の料理が60分食べ放題。(ソフトドリンク付) メニュー例 例1 フライ(イカ・鮭)・八宝菜(もしくは回鍋肉)・ピラフ(かオムライス) スパ2種・冷ソバ・カレー・パン類・フレンチトースト サラダ類・ぷりん・フルーツ缶詰?・生果物(パインとか) なんか魚の香草焼きみたいの・カツレツソースかけ? ポテトウィンナ・グラタン・ハンバーグ・ロースト物 ソフトドリンクのみ放題・コーヒー・紅茶 例2 ナシゴレンピラフ、照り焼きチキン、魚の香草焼き、ポテトグラタン パン、サラダ、豆腐サラダ、豚しゃぶサラダ、ポテトサラダ、マカロニサラダ フレンチトースト、そば、カレー、漬物、玉子スープ、回鍋肉 アジョーポテト、ミックスフライ、明太子パスタ、ペペロンチーノ、 ソーメンチャンプル、デザート(変動)
https://w.atwiki.jp/uyamarakuri98/pages/14.html
現代 2000年の長い年月が経ち、亜人たちは様々な災害や、亜人同士の戦争、他種族との諍いなどを乗り越え、文明を作り上げた。 300年前の天使たちによる戦争による大崩壊を機に、再び文明は衰退したものの、亜人たちはそれでも各地に都市国家を作り上げて、それぞれで六大竜を崇めた。 現在は過去の遺物を取り戻すための遺跡探索やそこから手に入られた文献などの研究が熱心に行われている。 また、天使たちが潜んでおり、天使に占拠されたままの領域も数多く残っていて、危険は多く、天使の討伐や境界線争いは頻繁に行われている。 さらに、天使が稀に呼び出す仮初の神との戦いにおいて、多くの犠牲を出しつつも対抗し続けている。 冒険者と呼ばれる者たちは、現在重宝されている。
https://w.atwiki.jp/oiko2009/pages/360.html
【書きかけ】福澤諭吉「現代語訳 学問のすすめ」(1876) 学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書) 評価 ひとこと 分類 倫理 新書 目次 学問には目的がある 人間の権利とは何か 愛国心のあり方 国民の気風が国を作る 国をリードする人材とは 文明社会と法の精神 国民の二つの役目 男女間の不合理、親子間の不条理 よりレベルの高い学問 学問にかかる期待 美しいタテマエに潜む害悪 品格を高める 怨望は最大の悪徳 人生設計の技術 判断力の鍛え方 正しい実行力をつける 人望と人付き合い 気になる表現 メモ 参考文献 本書を引用している文献 山口智司「名言の正体」 村上陽一郎「あらためて教養とは」
https://w.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/16.html
17p 立正安国論 文応元年七月 三十九歳御作 北条時頼に与うるの書 鎌倉に於いて 旅人 (真実の仏法を知らず、念仏などを信仰する謗法の人々を指し、 別しては、対告衆である北条時頼のこと) が来て嘆いていうには、 近年(正嘉元年・1257年)から近日(文応元年・1260年)まで、 天変(天空に起こる変動で、暴風、雷、日蝕、月蝕など)、 地夭(地上に起こる災いで、地震など)がうちつづき、 飢饉や疫病が全国にわたって満ち溢れ、地上いっぱいに広がっています。 牛や馬はいたるところに死んでおり、 その死骸や骸骨が道路一杯にあふれています。 すでに大半の者が死に絶え、これを悲しまない者は一人もいない状態です。 そこで、あるいは浄土宗では 「弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣である」との文を、ただひとすじに信じて、 西方十万億土の教主である阿弥陀仏の名を称え、 あるいは天台宗では 「すべての病がことごとく治る」という薬師経の文を信じて、 東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来の経を口ずさみ、 あるいは 「病がたちまちのうちに消滅して不老不死の境界をうる」という詞を信じて、 法華経の経文を尊び、 あるいは 「七難がたちまちのうちに滅して七福を生ずる」という仁王経の句を信じて、 百人の法師が百箇所において王経を講ずる百座百講の儀式ととのえ、 またあるいは真言宗では秘密真言の教えによって、 五つの瓶に水を入れて祈祷をおこない、 あるいは禅宗では坐禅を組み、禅定の形式をととのえて、 宇宙に存在する一切のものは全て空であると勧じ、 さらにある者は、 七つの善鬼の名を書いて門ごとに貼っておくと、 悪鬼が近寄らず災いが起きないという信仰に基き、 七鬼神の名を書いて千軒の門に貼ってみたり、 ある者は国王、万民を守護するという仁王経の五大力菩薩の形を書いて多くの家にかかげ、 あるいは天の神、地の神を拝んで四角四界のお祭りをし、 あるいは国王、国宰(国司、地方官)など政治をおこなっている者が 一切の人々を救済するために徳政 (自らの財を貧しい人々に施したり、あるいは財産家にすすめて慈善を行なわせること) を行なっています。 しかしながら、ただ心をくだくだけで、ますます飢饉や疫病にせめられ、 こじきは目にあふれ、死人はいたるところに転がっています。 うずたかく積まれた屍は物見台のようであり、 道路にならんでいる死体は橋のように見えます。 よくよく考えてみれば、 太陽も月もまた惑星もきちんと運行し、仏法僧の三宝も世の中に厳然としておられます。 また、かつて平城天皇の世に八幡大菩薩の 託宣(神仏がある事物や人物にことよせてのべ知らせること)があって、 かならず百代の王を守護すると誓ったというのに、いまだ百代の王にならないのに、 この世は早くも衰えてしまい、王法はどうして廃れてしまったのですか。 これはどのような過失から生じたものであり、 またどんな誤りから、このような状態になってしまったのでしょうか。 主人が言いました。 自分一人でこのことを憂(うれ)いて、思い悩んでいたところ、 客が来てともに嘆くので、いまこれについて、いろいろ語り合おうと思います。 いったい、 出家して修行の道にはいる者は、正法によって成仏することを期するのです。 ところが、いまや神の力もかなわず、仏の威徳に頼っても、その結果が顕れてきません。 いまつぶさに現在の世の状態を見ると、 人々は愚かで、後輩として疑いを起こしています。 それ故、 天を仰いでは恨みをのみ、地にふしては深く心配して思案に沈んでしまっています。 いま、よくよく細い管(見識のこと)をかたむけて、少しばかり経文を開いてみますと、 世の中はすべて正法に背き、人々はみな悪法に帰しています。 それ故、 守護すべき善神はことごとく国を捨てて去ってしまい、 聖人は所を去ったまま帰ってきません。 その結果、魔が起こり、鬼があらわれ、災いが起こり、難が起こるのです。 実にこのことは、声を大にしていわなければならないことであり、 恐れなくてはならないことです。 客が言いました。 天下の災難や国中の難については、自分一人だけが嘆いているのではありません。 すべての人々が悲しんでいます。 今、あなたの所に伺って、はじめて立派なご意見を承ったところ、 18p 国土を守護すべき善神や聖人がその国を捨て去ってしまい、 災難があいついで起こるということですが、 それはいったい、いずれの経文に出ているのか、その証拠を聞かせて下さい。 主人が言いました。 一切経の中には、そのような文はたくさんあり、その証拠は数え切れない程あります。 まず、 金光明経には次のようにあります。 「その国土(元意は日本国)に、たとえこの経(三代秘法の大御本尊)があっても、 国王がそれを流布させないで、むしろ、捨て離れる心を起こして聞こうともせず、 身で供養することも、心で尊重することも、口で賛嘆することもせず、 正法をたもつ四部の衆(比丘=男の出家者、比丘尼=女の出家者、優婆塞=男の在家、 優婆夷=女の在家)や 持経の人(別しては日蓮大聖人)を見て尊重も供養もしない。 そして、ついには帝釈天や四天王、およびそのほかの無量の諸天に対して、 この甚深の妙法(南無妙法蓮華経)を聞かせないようにしてしまい、 その為に、諸天は食べ物としている甘露の味も得られず、 正法すなわち妙法蓮華経の流れに浴さず、ついに諸天の勢力、威光を失わせてしまう。 その結果、国中に地獄、餓鬼、畜生、修羅などの四悪趣を増長し、 人界、天界の楽しみは損なわれ、 生死の河、すなわち煩悩、無明の苦しみの充満する世界におちこんで、 涅槃の道すなわち成仏の道に背き、ますますそれから遠ざかってしまうのである。 世尊よ、 我ら四天王ならびにもろもろの眷属、及び夜叉などは、国王が三大秘法を流布せしめない、 このような国王の謗法を見て、その国土を捨てて守らなくなってしまうであろう。 そのうえ、 ただ我ら四天王がこの国土を捨て去るばかりでなく、 かならず無量の国土を守護する諸大善神(諸天善神)も 皆ことごとく国土を捨て去るであろう。 すでに、四天王をはじめ、諸天善神が捨て去ってしまうならば、 その国にはさまざまな災いがあって、まさに国位を失ってしまうであろう。 一切の人々は皆ことごとく善心がなく、 ただ、しばり合い、殺害し合い、争い合って互いに相手を讒言し、 罪のない者をむりやりに法をまげて罪に落としいれるであろう。 数々の疫病が流行し、空には彗星がしばしば出て、一度に二つの日がならんであらわれ、 日蝕や月蝕などの薄蝕がしばしばあり、 黒白の虹が出て不詳の相をあらわし、 流れ星が出、地震が起きて、井戸の中から異様な地鳴りがする。 また、 大雨や暴風があって風雨が時節通りでなく、 常に飢饉が続いて草や木が実らず、多くの他国の怨賊が国内を侵略し、 人々はもろもろの苦悩をうけ、 国内にはいずれの土地も楽しく生活のできるところがなくなってしまうであろう」 と。 大集経には次のようにあります。 「正しい仏法が滅亡すれば、鬚や髪や爪を皆だらしなく伸ばし、 世間の諸法もまた忘れ失うであろう。 その時、空中に大きな声があって、地が震い、 地上の一切のものがあたかも水車が回るように動転する。 城壁は破れおち、人家はことごとく破れ崩れ、また樹木の根、枝、葉、華葉、菓(このみ)、 それらに含まれる薬味がなくなってしまう。 ただ浄居天という天界をのぞいて、 欲界の一切の七味(甘い、辛い、酸い、苦い、塩辛い、渋い、淡いの七種の味)・ 三精気(地精気、法精気、衆生精気をいう。地精気とは大地の生命力。 法精気とは世間法、国法、仏法のもっている力。衆生精気とは人間、社会の生命力)が減り、 生命を養うことができなくなる。 人を悟りに導くもろもろの正しい論も、その時には一切失われてしまう。 地に生ずる華果もごくわずかで味もまずい。 あらゆる井戸や泉も池もことごとく乾いて、土地はすべて荒地となり、 地割れがして、でこぼこになってしまう。 もろもろの山はみな焼けて雨は降らず、 苗も皆枯れ死に、生ずるものは皆枯れ尽きて、外の草も一切生じない。 大風が吹いて、土を巻き上げて降らし、 その為に空は暗くなって日月の光も見えない。 こうして、 四方は皆ひどい旱魃(かんばつ)となり、 もろもろの悪い瑞相が顕れ、 十不善業(十種類の悪の業因で、身の三悪、口の四悪、意の三悪がある。) 19p なかでも特に貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)が倍増して、 人々は父母に対しても、獐鹿(しょうろく) (鹿の一種で、この鹿は他のものに追われて身に危険が迫った時、 自分だけ助かる事を望んで、父母や仲間のことは少しも省みないで逃げるといわれる) のような恩知らずの行ないをする。 その結果、衆生も寿命も減じ体力も威光も楽しみもそこない、 人界、天界の楽しみを遠く離れて、皆ことごとく悪道におちてしまう。 このような不善業の悪王や悪僧がわが正法を破り、天界、人界の道を損ない、 諸天善神の梵天、帝釈、四天王などの衆生を哀れむべき善王も、 この濁悪の国を捨てて皆ことごとく他方へ向かうであろう」 と。 仁王経にはまた次のようにあります。 「国土が乱れるときは、まずその前に鬼神が乱れる。 鬼神が乱れて万民を悩ますが故に、万民が乱れるのである。 その故にまた、 他国の賊が国内に侵略してきて、あらゆる人々が殺害され、臣君、太子、王子、官吏が 互いに意見の不一致を起こして相争うであろう。 また、その時には、天地にいつもと違った種々の怪しい現象が起こり、 天の二十八宿、星の運行、あるいは太陽や月がいつもの軌道ではなくなり、 国に多くの賊が起きて、人々は大変な苦しみをうけるであろう。」 と。 また同じく仁王経には次のようにあります。 「仏がいま、肉眼、天眼、慧眼、法眼、 仏眼の五眼をもって明らかに過去、現在、未来の三世を見てみると、 世の一切の国王は皆、 過去世に五百の仏に仕えた功徳によって帝王となることができたのである。 この功徳の故に、一切の聖人や羅漢がその王の国土に生れてきて国王を助け、 大利益をなすのである。 もし王が善根を積まないで福運がつきてしまうときには、 一切の聖人はその王の国土を捨て去ってしまう。 もし聖人が去るときには七難がかならず起こるであろう」 と。 また薬師経には次のようにあります。 「もし、刹帝利(古代インドの四つの階級の一つで、王族、武士階級をいう)、 潅頂王(大国の王をいう)ら、いわゆる支配者階級のものに災難が起こるときには、 次のような七つの難がある。 すなわち、人々が伝染病などの流行に悩まされる難、他国から侵略される難、 自国内で反逆、同士討ちが起こる難、 彗星や流星があらわれたり、星の運行に異変が生ずる難、 太陽や月が日蝕、月蝕など薄蝕する難、 時期はずれのときに暴風雨のある難、 時を過ぎても降るべき時節に雨の降らない難、 以上七つの難である」 と。 仁王経には、また次のようにも説かれています。 「大王(波斯匿王[はしのくおう]のこと)よ、私(釈尊)がいま教化するところの 百億の須弥(須弥山を中心にした小世界)に百億の日月があり、 一つ一つの須弥に四天下がある。 そのうち一つ南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国がある。 その国土の中に七つのおそるべき難がある。 その訳は、これを一切の国王は難となすからである。 それではいかなることを難となすのか、それを説こう。 まず、太陽や月の運行が狂い、寒い暑いの時節が逆になり、 あるいは太陽の色が赤くなったり、太陽が黒色に変わったり、 あるいは一度に二、三、四、五の太陽が出たり、あるいは日蝕で太陽の光がなくなったり、 あるいは太陽が一重、二、三、四、五重の輪をあらわすのが一の難である。 次に、二十八宿が運行する軌道を失い、 金星、彗星、輪星、鬼星、火星、水星、風星、刁星、南斗、北斗、五鎮の大星、 一切の国主星、三公星、百官星などの多くの星が、 それぞれ異常な現象を起こすのを二の難とする。 第三に、大火が国を焼き、あらゆる人々を焼き尽くすであろう。 あるいは鬼火(衆生の乱れを鬼が怒って起こすと考えられた、原因不明の火事)、 竜火(竜の怒りによって起こされる火)、 天火(天の怒りによって起こると考えられた火災)、 山神火(神仙の怒りによって起こるとされた火災)、 人火(人の過失によって起こる火災)、 樹木火(日照りが続き空気が乾燥して、自然発火する火)、 賊火(盗賊の放火などによる火災)が起こるであろう。 このように変怪するのを三の難とするのである。 第四に大洪水が起きて、人々を押し流し、時節が夏と冬と逆になって、 冬に多くの雨が降り、夏に多くの雪が降る。 冬に雷が鳴り、暑い六月に氷や霜や雹が降り、赤い雨、黒い雨、青い雨を降らし、 また土や石も山ほど降らし、砂や小石や石を降らす。 河は流れが逆になり、山を浮かべ、石を流す程の大洪水となる。 このような異変を生じてくるのが第四の難である。 20p 第五に、大風が起こって多くの人々を吹き殺し、国土、山河、樹木が一度に滅し、 時節外れの大風、黒風、赤風、青風、天や地を吹く旋風、熱風、雨交じりの強風が 吹きまくるであろう。 このように異変を生ずるのを五の難とする。 第六に、天地、国土が大旱魃のため渇ききり、天地も国土も猛烈に暑く、 大気は燃え上がらんばかりで、あらゆる草々は皆枯れて、米や麦、粟などの穀物は実らず、 土地はやけただれて人々は滅び尽きてしまうであろう。 そのように変ずるのを六の難とする。 最後に、四方の他国の賊が来て国を侵略し、 国内にも賊が内乱を起こして、 火賊、水賊、風賊(これら三つは火災、水害、風害などの災害に乗じて悪事を働く賊のこと)、 鬼賊(人さらいのようなもの)があって人々を荒れ乱し、 いたるところで大闘争が起きるであろう。 そのように異変を生ずるのを第七の難とするのである」 と。 また大集経には次のように説かれています。 「もし国王があって無量世(教えられない程の多くの生死生死を重ねること)にわたって 布施を行じ、戒律をたもち、智慧を修得しても、正法の滅するのを見て、 捨てて擁護しないならば、このようにして修行して植えてきた計り知れない程の善根も、 皆ことごとく滅し失って、その国に三つの好ましくないことが起こるであろう。 その三つとは、 一には穀貴すなわち穀物の収穫が減少して値が高くなり、 二には兵革すなわち戦争であり、 三には疫病である。 このようなときには、一切の善神がことごとくその国土を捨てて離れてしまうので、 その国の王がいかに命令しても、いっこうに国民がそれに付き従わないばかりか、 常に隣の国の侵略を受けるであろう。 そのうえ、 猛烈な火災がいたるところに起こり、 悪風雨があって河川が氾濫し大洪水となり、多くの人々を吹き飛ばし押し流す。 そして、王の内親(父方の親類のこと)も、 外戚(母方の親類のこと)も、共に謀反を起こすであろう。 その王はまもなく重病にかかり、 死んで後大地獄の中に生れるであろう。 王と同じく夫人、太子、大臣、城主、柱師、郡守、宰官達も、 皆王のように地獄へ堕ちるであろう」 と。 以上のように、 金光明経、大集経、任王経、薬師経の四経の経文はまことにはっきりしています。 誰人なりとも、どうしてこれを疑うことができましょうか。 それにもかかわらず、道理にくらく法の正邪の区別がつかない人や、 邪正に迷っている者が、みだりに邪説を信じて正しい教えをわきまえません。 故に世間の人々は、すべて諸仏や衆経に対して、 捨て離れる心を起こして護る志がないのです。 そのために諸天善神も聖人も、その国を捨て去ってしまい、 かわって悪鬼、外道が災難を起こすのです。 客は顔色を変えて問い返しました。 中国・後漢の明帝は金人の夢を見、その意味を悟って、仏教をインドから求め、 我が国においては聖徳太子が仏教に反対する物部守屋の反逆を征伐して、 仏教を興隆し、寺や塔を建立したのです。 それより以来、上は天皇から下は万民にいたるまで、 仏教を造立して敬い、経巻を紐解き読んできました。 従って、 比叡山、奈良の七大寺、園城寺、東寺をはじめとして、四海・一州(日本国中)、 五畿(京都を中心として山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国を畿内と定め、五畿と呼んだ)、 七道の全国いたるところに仏法はくまなく伝わり、仏像、経巻は星のごとくつらなり、 寺院は雲のようにたくさん立ち並んでいます。 故に舎利弗の流れをくむ人々は、その観法を敬う立場を守り、 あるいは付法蔵の第二十三祖である鶴勒(かくろく)の流れをくむ者は、 その教法を尊ぶ伝統を今日まで伝えています。 それにもかかわらず、釈尊一代の教えを破りけがし、 仏法僧の三宝を廃し、仏法が滅びてしまったなどと誰がいえましょうか。 もし、その証拠があるならば、くわしくその理由を聞きたいと思います。 主人はさとしていいました。 確かに沢山の寺院が棟をつらね、経典などをおさめる蔵も軒を並べて、 いたるところに立っています。 また僧侶も竹やアシ、稲や麻のように沢山います。 それらの寺院や僧侶を人々が崇め重んじるようになって既に久しく、 それらの人々の尊貴さも日に日に新たです。 21p しかしながら、一切の僧侶は心がひねくれて、 へつらう心が強く、人として踏み行なうべき道を迷わせています。 国王をはじめ臣下達は無智のため、法の邪正をわきまえていないのです。 仁王経には 「もろもろの悪い僧侶が多く名誉や利益を求めて、国王、太子、王子などの権力者の前で、 みずから仏法を破る因縁、国を破る因縁を説くであろう。 その王はそれらの因縁をわきまえることができなくて、 この言葉を信じ、道理に外れた自分勝手の法制を作って仏の戒めによらない。 これを破仏・破国の因縁となすのである」 とあります。 涅槃経には 「菩薩達よ、狂暴な悪象などに対しては、なんら恐れることはない。 正法を信じていこうとする人の心を迷わす悪知識に対しては、恐れなければならない。 その理由は、悪象に殺されても地獄、餓鬼、畜生の三悪道に陥ることはないが、 悪友に殺されては、すなわち仏道を行ずる心を絶たれては必ず三悪道に堕ちるからである」 とあります。 法華経には次のように説かれています。 「悪世の中の僧侶は邪智で心がひねくれて、仏法に不正直であり、 いまだ何もわかっていないのに、自分は悟りを得ていると思い、 自分を慢ずる心が充満している。 あるいは人里離れた静かな山寺などに袈裟、衣をつけて閑静な座におり、 自ら仏法の真の道を行じていると思いこんで、 世間の事にあくせすする人間を軽んじ、卑しむであろう。 彼らは、私服を肥やすため、金品をむさぼるために、在家の人達に説法し、 世の人達からもあたかも六神通を得た羅漢のように恭(うやま)われ、 尊敬されている。 そして常に人々のなかにあって、 正法をたもつ者を謗るために、国王や大臣、バラモン(インドの最上階級)、 居士(資産家、富豪のこと。また出家しないで仏門に帰依した男子の総称) およびもろもろの僧侶に向かって、正法の行者を誹謗し、 その悪い点を作り上げて 『この人はよこしまな思想をもっており、外道の論議を説いている』 というであろう。 濁りきった悪世である末法においてはもろもろの恐怖がある。 邪宗邪義の悪鬼がこれらの国王、大臣達の身に入って、 正法の行者を罵ったり、謗り、辱めたりするであろう。 末法のんもこれらの悪僧侶達は、方便・権教が、 仏が衆生の機根に従って説いたものであることを知らないでこれに執着し、 かえって正法たる法華経の行者の悪口をいい、 顔をしかめて憎み、しばしばその正法の行者を追い出すであろう」 と。 また涅槃経には次のように説かれています。 「仏が入滅して後、幾百年、幾千年という長い年月を過ぎると、 仏法を正しく弘める聖人達もことごとく入滅するであろう。 正法一千年が過ぎて像法時代となり、ことに像法の終わりから末法へかけての時代に、 次のような僧があらわれるであろう。 その僧は、外面は戒律をたもっているように見せかけて、 少しばかり経文を読み、食べ物をむさぼって我が身を養っている。 その僧は、袈裟を身にまとっているけれども、 信徒の布施を狙うありさまは、 猟師が獲物を狙って、細目に見て静かに近づいていくようであり、 ネコがネズミを捕らえようとしているようなものである。 そして、 常に『自分は羅漢の悟りを得た』といい、外面は賢人、善人のように装っているが、 内面は信徒の布施を貪り、正法をたもつ人に嫉妬心を強く抱いているのである。 法門のことなどを質問されても答えられないありさまは、 ちょうどインドのバラモンの修行の一つである啞法の術をうけて 黙り込んでいる連中のようである。 実際には、正しい僧侶でもないのに僧侶の姿をしており、 邪見が非常に盛んで正法を誹謗するであろう」 と。 以上あげた通り、経文によって現代の世相をみると、まことに経文通りです。 このような腐敗堕落した僧侶を戒めなければ、 どうして善事を成し遂げることができるでしょうか。 客がなお前にも倍して憤っていうには、 政治の世界における賢明な指導者は世を治めるのに、正しい道理により、 社会の状況、人々の要望に即して民衆を導き、 聖人は道理にかなっていることとかなっていないことを公平に立て分けて世を治めます。 いま、世間の高僧達は、いずれも天下万民がすべて帰依しています。 もしそれが悪侶であれば、賢明な指導者は信じないでしょうし、 それらの高僧が聖人でないならば、 世の指導者達がこれらの人を信じ仰ぐわけがありません。 いま、世の賢人や聖人がそれらの名僧を尊び崇めているのをみれば、 世で仰いでいる僧侶達が 竜象(聖者、高僧、名僧を、巨大で威力のある動物である竜や象に例えている語) ともいうべき高僧であることがわかります。 22p それなのにどうしてあなたはそのような口から出まかせの言葉を吐いて、 あえて誹謗し、いったい、誰人のことを悪僧というのか、 それをくわしく聞きたいと思います。 主人がそれに答えていうには、 後鳥羽天皇の時代に法然という僧がいて、選択集(せんちゃくしゅう)を作りました。 すなわち、この書によって釈尊一代の説法を破り、 ひろく日本国中の一切の人々を迷わしたのです。 その選択集には次のようにあります。 「道綽禅師が安楽集に 『聖道門、浄土門の二門を立て、聖道門を捨てて正しく浄土門に帰すべきである』 と説いた文について。 それについて自分(法然)が考えると、 はじめに、聖道門とは、これについて大乗、小乗の二つがあり、 大乗のなかに顕教、密教、権教、実教などがある。 いま、この安楽集の意は、 小乗教と大乗教のうちには、ただ顕教と権教を聖道門とする。 これに準じて思うに、 聖道門として捨てなければならないのは小乗、顕教、権教はもちろんのこと、 まさに密大の真言も、実大の法華も聖道門として捨てるべきである。 従って、これらの経によって立っているところの 真言宗、禅宗、天台宗、華厳宗、三論宗、法相宗、地論集、摂論宗などの八宗は、 まさしく顕密、権実の相違はあっても、皆聖道門として捨て去り、 浄土の一門に帰すべきである。 中国念仏宗の開祖である曇鸞法師の往生論の注には、次のようにいっている。 慎んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)を考えてみると、 菩薩が不退転の位を求めるのに、 二種類の道がある。 その一つは難行道であり、他の一つは易行道であると。 この中の難行道とは、 すなわち聖道門であり、易行道とは、すなわち浄土門のことである。 浄土宗の学者は、すべて、まずこの旨を知るべきであり、 たとえ以前から聖道門を学んでいる人であっても、 もし浄土門に入って学びたいという志のある者は、 当然聖道門を捨てて、浄土門に帰すべきである」 と。 また次のようにあります。 「善道和尚が正行・雑行の二つの行を立て、 雑行を捨てて、正行に帰すべきであると述べた文は次のようである。 第一に読誦雑行とは、浄土宗の依経である観経などの、 西方極楽浄土に往生できるという経を除いて、 それ以外の大乗教、小乗教、顕教、密教の諸経を受持読誦することを、 ことごとく読誦雑行と名づけるのである。 第三に礼拝雑行とは、 阿弥陀仏を礼拝する以外は、 一切の諸仏菩薩などおよびもろもろの人界の神および諸天善神などに対して、 礼拝し恭敬するのを、ことごとく礼拝雑行と名づけるのである。 以上の文について、 自分(法然)の見解をまとめていうならば、 われわれはまず雑行を捨てて専修念仏を修行しなければならない。 どうして百人が百人とも、必ず極楽浄土へ往生できる専修正行の念仏を捨てて、 千中無一、すなわち千人の中に一人も成仏することのできない、 法華経などの雑修雑行に堅く執着する道理があろうか。 仏道を修行する者は、よくよくこのことを考えるべきである」 と。 また 「中国の唐の時代の僧円照が選んだ貞元蔵録(じょうげんぞうろく)の中には、 大般若経六百巻からはじまって法常住経にいたるまで、 顕教、密教の大乗教は総じて六百三十七部二千八百八十三巻あるが、 これらは皆、読誦大乗という一句のなかにおさめて、 ひとたばにして捨てるべきであり、 釈尊の本意は、ただ念仏だけである。 まさに知るべきである。 仏が衆生の機根に応じて説いた随他意の法門の場合には しばらく定散(定善と散善のことで、浄土宗で立てる修行法のこと) 二善の諸行の門を開いたが、 いよいよ釈尊の本意である 随自意(衆生の機根にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説くこと) の法門を説いた後には、 かえって前に説いた方便の定散の門を閉じてしまった。 一度開いた後、永久に閉じない門は、ただ念仏の一門のみである」 とあります。 また 「念仏の行者は必ず三心を具足しなければならないとの文。 この文は観無量寿経にあり、 善導があらわした同経の疏には 『問うていわく、もし念仏の行者と知解も修行も同じでなく、 ”念仏は邪経だ”などという邪雑の人があって・・・』、 また 『外邪異見の難を防ごう(聖道門中の悪見、邪雑の人を外道、邪見、異見の者として、 それらの難を防いで、もっぱら念仏を修行せよ、との意)』、 『涅槃経や大論にある、 一歩か二歩しか進まないうちに郡賊達が旅人を呼び返すというたとえば、 別解、別行、悪見の人を郡賊にたとえているのである』と。 この善導の文について自分(法然)が考えるには、 一切の別解、別行、異学、異見などと善導がいっているのは、 聖道門の人々をいうのである」 とあります。 23p そして、選択集の最後、結句の文では 「それ、すみやかに、生死の苦しみを離れようと欲するならば、 二種の勝れた法のなかで、聖道門をさしおいて浄土門に入りなさい。 浄土門に入ろうと欲するならば、正行、雑行のなかで、 もろもろの雑行をなげうって、選んでまさに正行に帰して、 もっぱら弥陀を信じ、念仏修行をしていきなさい」 といっています。 以上が選択集の内容です。 この法然の選択集をみると、 念仏の祖である中国の曇鸞(どうらん)、道綽(どうしゃく)、 善導(ぜんどう)の誤った釈を引いて、聖道と浄土、難行と易行の旨を立て、 法華真言をはじめ、 総じて釈尊一代の大乗教六百三十七部二千八百八十三巻の一切の経文と、 一切の諸仏菩薩および諸天善神などを信仰することを、 みな聖道門、難行、雑行などに入れてしまって、あるいは捨てよ、あるいは閉じよ、 あるいは閣(さしお)け、あるいは擲(なげう)てといっています。 この四字をもって一切衆生を迷わし、 そのうえにインド、中国、日本の三国の聖僧や十方の仏弟子を、 みな郡賊といい、念仏の修行を妨げるものであるとして、 これらの聖僧に悪口をあびせてかけています。 このことは、近くは、彼らが依経としている、 浄土の三部経のなかに説かれている、法蔵比丘四十八願中の第十八願に 「念仏を称えていけば必ず極楽浄土に往生出来るが、 ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」 との誓文に背き、 遠くは釈尊一代五時の説法のうち、 その肝心である法華経の第二の巻・譬喩品第三の 「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、 その人は命が終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」 との釈尊の誡文に迷うものです。 この法然の邪義に対して、 いまは既に末代であり、人々は凡愚で、 聖人のように法の邪正をわきまえることができません。 ですから、僧侶も俗世間の人々も、 皆迷いの暗い道に入って成仏への直道を忘れてしまっています。 また悲しいことは、 誰一人としてこの謗法を責める者がいません。 痛ましいことには、いたずらに邪信を増すばかりです。 そのために、上は国王から、下は万民にいたるまで、みな経といえば、 浄土の三部経以外になく、仏といえば阿弥陀仏と、 その脇士である観音菩薩と勢至菩薩の三尊以外にないと思っています。 しかしながら、一方、伝教、義真、慈覚、智証達が、 あるいは万里の波濤を渡ってもたらした経典や、 あるいは中国の各地をめぐってあがめた仏像は、 あるいは、高い山の頂に仏堂を建てて安置し、 あるいは深い谷の底に僧坊を建てて安置し、崇重してきました。 そうして、比叡山の西塔に安置された釈迦如来、 あるいは東塔止観院・根本中堂に安置された薬師如来は、 光を並べて威光を現当二世におよぼし、 同じく横川般若谷に安置された虚空蔵菩薩、 また戒心谷にまつられた地蔵菩薩も、 ともに、いよいよ利益を今生と後生に施して、万民の崇拝するところでした。 ゆえに、国主は一群、一郷を寄進して燈明料とし、 地頭は田畠荘園を寄進して供養しました。 このように、比叡山の法華経を中心とする天台宗は、 隆盛を極めたのでした。 ところが、 法然の選択集によって、情勢は一変しました。 すなわち、教主釈尊を忘れて西方の阿弥陀如来を尊び、 釈尊の付嘱をなげうって天台、伝教の建立した東方の薬師如来を閣(さしお)き、 ただ四巻三部の浄土宗の依経をもっぱら信仰して、 釈尊一代の五時の聖教をむなしく抛つてしまいました。 それゆえに、 阿弥陀如来の堂でなければ、仏を供養しようとの志を捨て、 念仏の僧でなければ、一切の布施をしなくなってしまいました。 そのため、仏閣はおちぶれて、 屋根はコケが生えて松のような眺めとなり、 立ちのぼる煙もほそぼそと、僧坊も荒廃して、 問いたずねる人もなく生い茂る庭草の露が深い。 しかしながら、そのような状態になっても、 人々は法を護り惜しむ心を捨ててしまって、 これを建立しようとの思いもなくなってしまいました。 24p このゆえに、 寺を護りたもつ聖僧は去って帰らず、 守護の善神も去ったまま二度と帰ってきません。 これもひとえに法然のあらわした選択集によって起きた災いです。 悲しいことには、 数十年の間に、 百千万の人が法然の魔縁にとろかされ多く仏法に迷ってしまいました。 傍(ぼう)の念仏を好んで、正の法華を捨てるならば、 どうして善神が怒らないわけがあるでしょうか。 円教である法華経を捨てて、へんぱな念仏を好んで、 どうして悪鬼が便りを得ないでいるでしょうか。 災難を根絶するには、 かの千万の祈りを修するよりは、 この一凶である法然の謗法を禁じなければならないのです。 客はますます怒りの色をあらわして言いました。 わが本師釈迦牟尼仏が浄土の三部経を説かれて以来、 曇鸞法師ははじめは竜樹菩薩の中観論などの四論を学びましたが、 これを捨てて一向に浄土念仏に帰しました。 また二祖道綽禅師は、はじめ涅槃宗によって修行しましたが、 この涅槃の広業を閣いて、 ひたすら念仏の西方浄土往生の願行をひろめ、 善導和尚は雑行を抛つて専修念仏を立て、 慧心僧都は諸経の要文を集めて、念仏の一行を宗としました。 阿弥陀仏を尊び重んずることはまことにもってこの通りです。 また、 その念仏の功徳によって往生できた人は 数えきれないほど沢山いるではありませんか。 なかでも、 法然上人は、幼少のときから比叡山にのぼり、 十七歳のときに、法華経の奥義である天台、妙楽の書六十巻を読み、 さらに天台、真言はじめとする八宗の教義を究めつくし、 つぶさにその大意を得ました。 そのほか、 一切の経論を七回も読み返し、仏法の教義を述べた章疏や、 歴史に関する伝記類も一冊として窮めなかったものはなく、 その智慧はあたかも日月に等しく、 徳は日本や中国の先師達をもはるかに越えていました。 しかし、このようであったけれども、 なお聖道門の天台流では俗世間を出で離れる道に迷い、 成仏の境界をわきまえる事が出来なかったのです。 故に、 一切の経論を全部見、その内容をことごとく考えた上で、 末代に相叶う行を深く思い、 遠く思慮をめぐらして、ついに諸経を抛(なげう)ち、 専修念仏の行を立てられたのです。 そのうえ、 夢に善導を見て霊応(仏・菩薩・神などの不思議な感応のこと。霊感と同じ)をうけ、 いよいよ確信を深めて、ひろく天下に念仏をひろめました。 故に人々は法然を、あるいは勢至菩薩の化身 (仏・菩薩が衆生を救い利益するために種々に変化した身体のこと) と号し、 あるいは善導和尚の再誕かと仰いで、 貴賎老若男女を問わず、国中がみな厚く法然を信仰するに至ったのです。 それより以来、 すでに長い年月を経て、今日に至りました。 しかるにあなたは、 もったいなくも、一切の災難は法然にあるといって、 釈尊の説かれた念仏の教えをおろそかにし、 弥陀をほしいままに譏(そし)っています。 なに故に、最近起こった災いをもって、聖代の法然にその源があるとし、 あえて念仏の祖師達を毀(そし)り、さらに法然上人を罵るのですか。 法然上人に対する悪口は、まるで毛を吹いて、しいて傷の口を求め、 皮を切ってわざわざ血を出すようなもので、 ありもしない事を無理にこじつけて、人を謗る罪を犯すものではないですか。 昔より今日に至るまで、こんな悪言はいまだ見た事がありません。 あなたはその罪を恐れて口を慎みなさい。 そういう悪口をいうあなたの罪は非常に重く、その罪は必ず問われるでしょう。 あなたと対座しているだけでも、同じ罪を共にうける恐れがあるので、 杖にたずさわれてさっそく帰ろうと思います。 主人は悠々と笑みをたたえ、客がいまにも帰ろうとするのを止めていいました。 からいタデの葉ばかり食べている虫は、そのからさを知りません。 また、臭い便所の中に長くいる虫も、その臭いがわからなくなってしまうものです。 永年、邪法に染まった人はそれと同じで、 あなたは私のいう良い話を聞いて逆に悪い話と思い、 謗法を犯している法然を聖人といい、正師たる日蓮を疑って悪侶のように思ってます。 そのような迷いこそ まことに深く、その罪は まことに重いのです。 ことの真因を聞きなさい。その趣旨を話してあげましょう。 釈尊は、 一代五十年の説法のうち、五時に分けて先後を立て、権実を明かされました。 ところが、 念仏の祖である曇鸞(どうらん)、道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)は 25p 仏説に反して権教につきしたがって肝心の実教を忘れ、 五十年の説法のうち、 先の四十余年に説いた権教によって、 最後の八年間に説いた法華経を捨ててしまいました。 これは仏法の奥底を知らない者です。 なかでも特に法然は、これら曇鸞、道綽、善導の流れを継いではいますが、 その源である三師が、権実の教えに迷っていることも知らないのです。 そう断定する理由は何かといえば、 大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびに一切の諸仏菩薩および 諸々の諸天善神などについて、 「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」の四字を勝手に置いて 一切衆生の心を軽んじてしまいました。 これはひとえに法然自身が勝手につくった言葉であって、 まったく釈尊の経文を見ない説です。 この妄語(いつわりの言葉)のいたり、 その悪口のとがは他に比べることが出来ないほど重く、 いくらその罪を責めても責めたりません。 しかも、世の人々は皆、この妄語を信じ、法然の選択集を尊んでいます。 故に浄土の三部経をあがめて、そのほかの一切経を抛ち、 阿弥陀仏のみを仰いで、他の諸仏を忘れています。 まことに法然こそ諸仏諸経の怨敵であり、一切の聖僧、大衆の仇・敵です。 しかも、 この邪教は広く天下にひろまり、あまねく十方に充満してしまいました。 そもそもあなた(客)は、 正嘉の大地震など近年の災難をもって、 先年、法然が念仏をひろめた故だとすることに、これを暴言と思い、 むやみに恐れているが、いまここに多少の先例を引いて、 あなたの迷いをはらしてあげましょう。 摩訶止観第二に、 史記を引いていうには 「中国周代の末に髪を乱し、裸で礼儀を守らない者がいた」と。 この止観の文をさらに妙楽大師は、 弘決の第二に左伝を引いて解釈していますが、 そこには 「周の国家は礼儀をもととして建てられたが、第十三代の平王の代に 犬戎(けんじゅう)の侵略を避けて、都を東の洛邑(らくゆう)に移すとき、 伊川で髪を束ねず、ばらばらにした姿で、野原で神をまつっているのをみた。 その光景を見た識者は、 あと百年もたたないうちに国は滅びるであろう。 その兆しとして礼が滅びてしまったと予言した」 とあります。 このことからもわかるように、 災難が起こる時には、まずその兆しがあらわれ、その後に災いが起こるのです。 また同じく、止観の第二には次のように述べています。 「中国西晋の時代、竹林の七賢の一人で有名な阮藉(げんせき)という 優れた才能をもっている者がいた。 彼は髪を乱し、着物もだらしなく着て、礼儀というものをまるで意に介さなかったが、 当時の公卿の子弟が皆阮藉にならって礼儀を乱し、 いやしい言葉で、互いに悪く言い合い、反対に、 礼儀を重んずる、慎み深い者を「あれは田舎者だ」と呼んだ。 すなわち、これを西晋の王である司馬氏の滅亡する相とした」 とあります。 また、 慈覚大師の入唐巡礼記をみると、次のように出ています。 「中国、唐の武宗(ぶそう)皇帝は会昌元年に勅命を発して、 章敬寺の鏡霜法師(きょうそうほっし)に 国内の寺々に弥陀念仏の教えをひろめさせました。 そのため、寺ごとに、三日ずつめぐって説法したが、 勅を発した翌年には、早くも回鶻国(かいこつこく)の軍兵が唐の境を侵略してきた。 また、 会昌三年には河北の節度使が反乱を起こした。 その後、当時唐の属国となっていたチベットが、再び唐の皇帝の命を拒み、 回鶻国は重ねて国内に侵略してきた。 そのために、兵乱はあたかも秦の始皇帝、楚の項羽の時代と同じような激しさで、 町も村もみな、災火に巻き込まれてしまった。 ましていわんや、 武宗は、仏法をおおいに破り、寺院を破壊するなど大謗法を犯したので、 兵乱を抑えることができず、ついにはその罪によって病となり、 苦しんで死んでしまった」 と。 こうしたことを考え合わせると、称名念仏は亡国のもとです。 しかるに、法然は後鳥羽上皇の時代、建仁年中の者です。 後鳥羽上皇が承久の乱で滅び去ったことは眼前の事実です。 しかればすなわち、 中国においては唐の滅亡するという先例があり、 わが朝廷では三上皇が 臣下ともいうべき幕府によって流罪されるという証拠をあらわしました。 あなたは疑ってはならないし、怪しんでもなりません。 一刻も早く法然が立てた念仏の凶を捨て、 日蓮が説くところの妙法たる善に帰依して、 選択集を破ることによって災難の源を塞ぎ、その亡国の根を断つべきです。
https://w.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/19.html
438p 教機時国抄 弘長二年二月八日 四十一歳御作 本朝沙門日蓮之を註す 1 教を明かす 一に教とは ―。 釈迦如来が説かれた一切の経・律・論は五千四十八巻・四百八十帙(ちつ)である。 これがインドに流布すること一千年を経て釈尊の滅後一千十五年にあたる年に中国に仏経が渡った。 後漢の孝明皇帝の永平十年丁卯(ひのとう)から唐の玄宗皇帝の開元十八年庚午に至るまでの 六百六十四年の間に、一切経は渡り終わった。 この一切の経・律・論の中に、小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経がある。 これらをわきまえ知らなければならない。 この名称は、論師・人師から出たものではなく、仏説から起こったものである。 したがって、十方世界の一切衆生は一人ものこらずこれを用いるべきである。 これを用いない者は外道の者と知るべきである。 阿含経を小乗と説くことは方等・般若・法華・涅槃などの諸大乗経から出たのである。 法華経には 「ただ小乗経だけを説いて法華経を説かなければ仏は慳貪(けんどん)の罪に堕ちるであろう」 と説かれている。 また、涅槃経には 「ただ小乗経だけを用いて、仏を無常であるという人は、舌が口の中で爛れるであろう」 と説かれている。 2 機を明かす 二に機とは ―。 仏教を弘める人はかならず衆生の機根を知るべきである。 舎利弗(しゃりほつ)尊者は金師(こんし)に不浄観(ふじょうかん)を教え、 浣衣(かんえ)の者には数息観(すそくかん)を教えたところ、 九十日を経て所化の弟子は仏法を少しも覚らないで、 かえって邪見を起こし一闡提(いっせんだい)となってしまった。 仏は金師に数息観を教え、浣衣の者に不浄観を教えられたので、 たちまちのうちに彼等は覚ることができた。 智慧第一の舎利弗でさえなお衆生の機根を知らない、 ましてや末代の凡師においては機根を知りがたい。 ただし機根を知らない凡師は、所化の弟子にひたすら法華経だけを教えるべきである。 問うていうには、それでは法華経譬喩品の 「無智の人の中において、この法華経を説いてはならない」との文はどうなのか。 答えていうには、機を知るとは智人が説法する場合である。 しかし、謗法の者に向ってはひたすら法華経を説くべきである。 それは毒鼓(どっく)の縁を結ぶためである。 たとえば不軽菩薩のようなものである。 また智者となるべき機根と知るならば、 かならず先に小乗を教え、つぎに権大乗を教え、最後に実大乗を教えるべきである。 しかし機根が愚かな者であると知るならば、かならず先ず実大乗を教えるべきである。 信ずるにしても謗ずるにしても、ともに下種となるからである。 439p 3 時を明かす 三に時とは ―。 仏教を弘めようとする人は、かならず時を知るべきである。 譬えば、農人が秋や冬に田を作れば、種と土地と人の労作業に変わりがなくても、少しも収益がなく、 かえって損することになる。 一段を作る者は少損であり、一町二町等を作る者は大損である。 しかし、春や夏に耕作すれば、 上中下にしたがって、皆、それぞれの分に応じた収益があるようなものである。 仏法も、また、これと同様である。 時を知らないで法を弘めるならば、利益がないばかりか、かえって悪道に堕ちることになる。 仏はこの世に出現されて、かならず法華経を説こうとされたが、 たとい機はあっても時が来ていなかったので、四十余年の間には、法華経を説かれなかった。 故に法華経方便品第二には 「説く時が未だ至らなかった故である」等といわれている。 仏の滅後のつぎの日から始まる正法一千年間は、持戒の者が多く破戒の者が少ない。 正法一千年のつぎの日から始まる像法一千年間は、破戒の者が多く無戒の者が少ない。 像法一千年のつぎの日から始まる末法一万年間は、破戒の者が少なく無戒の者が多い。 正法には、破戒・無戒の者を捨てて持戒の者を供養すべきである。 像法には、無戒の者を捨てて破戒の者を供養すべきである。 末法には無戒の者を供養すること、仏を供養するようにすべきである。 ただし、法華経を謗る者に対しては、正法・像法・末法の三時にわたって、 持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも、ともに供養すべきではない。 もし供養するならば、かならず国に三災七難が起こり、 供養した者もかならず無間大城(むげんだいじょう)に堕ちることになる。 法華経の行者が権経を謗ずるのは、 主君が所従を、親が子息を、師が弟子を処罰するようなものである。 だが、権経の行者が法華経を謗ずるのは、 所従が主君を、子息が親を、弟子が師を処罰するようなものである。 また今の世は、末法に入って二百十余年になる。 権経・念仏等の時か、法華経の時かをよくよく考えるべきである。 4 国を明かす 第四に国とは ―。 仏教はかならずその国に応じた法を弘めるべきである。 国には寒い国と熱い国、貧しい国と富める国、世界の中央にある国と辺境の国、 大国と小国、盗賊ばかりの国、殺生者ばかりの国、不孝者ばかりの国等があり、 また、小乗だけの国、大乗だけの国、大乗と小乗を兼ね学ぶ国もある。 それでは、日本国は小乗だけの国なのか、大乗だけの国なのか、 それとも大乗と小乗とを兼ね学ぶ国なのか、この点をよくよく勘えるべきである。 5 教法流布の先後を明かす 第五に教法流布の先後とは ―。 まだ仏法が渡っていない国には、まだ仏法を聴かない者がいる。 すでに仏法の渡った国には仏法を信ずる者がいる。 かならず先にその国に弘まった法を知って、後の法を弘めるべきである。 先に小乗・権大乗が弘まっていたならば、後にかならず実大乗を弘めるべきである。 先に実大乗が弘まっていたならば、後に小乗・権大乗を弘めてはならない。 瓦礫(がりゃく)を捨てて黄金と珠を取るべきである。 黄金と珠を捨てて瓦礫を取ってはならない。 440p 以上のこの五義を知って仏法を弘めるならば、日本国の国師となるのである。 6 教を知る ゆえに法華経は一切経の中の第一の経王であると知るのが、教を知る者である。 ところが光宅寺(こうたくじ)の法雲(ほううん)、道場寺の慧観等は、 涅槃経は法華経よりも勝れているといっている。 清涼山(しょうりょうざん)の澄観(ちょうかん)、高野山(こうやさん)の弘法等は、 華厳経・大日経等は法華経よりも勝れているといっている。 嘉祥寺(かじょうじ)の吉蔵(きちぞう)、慈恩寺(じおんじ)の窺基法師(ききほっし)等は、 般若・深密等の二経は法華経よりも勝れているといっている。 天台山の智者大師ただ一人だけが一切経の中で法華経が勝れていると立てただけではなく 「法華経よりも勝れた経があるという者を諫暁しなさい。それでもいいやまないならば、 現世には舌が口中で爛(ただ)れ、後生は阿鼻地獄に堕ちるであろう」等といわれたのである。 これらの相違をよくよくわきまえた者が教を知っている者である。 今の世の千万の学者等は、誰もがこれに迷っている。 もしそうならば、教を知っている者は少ないことになる。 教を知っている者がいなければ、法華経を読む者もいない。 法華経を読む者がいなければ、国師となる者もいない。 国師となる者がいなければ、 国中の人々は一切経の大乗・小乗・権経・実経・顕経・密経の差別(しゃべつ)に迷って、 一人も生死を離れる者がなく、結局は謗法の者となり、法によって阿鼻地獄に堕ちる者は、 大地の微塵よりも多く、法によって生死を離れる者は、爪の上の土よりも少ない。 まことに恐るべきことである。 7 機を知る 日本国の一切衆生は桓武(かんむ)天皇以来四百余年、一向に法華経の機根である。 たとえば霊鷲山(りょうじゅせん)で八箇年の説法を聞いた衆生が鈍円の機根であったのと同じである (このことは天台大師・聖徳太子・根本大師・安然和尚・慧心僧都等の文書に記されている)。 これが機を知るということである。 ところが今の世の学者がいうには「日本国は一向に称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の機根である」と。 たとえば舎利弗が機根に迷い、所化の衆生を一闡提としてしまったようなものである。 8 時を知る 日本国の今の世は、如来の滅後二千二百十余年、 後の五百歳に当っており、妙法蓮華経の広宣流布する時刻である。 これを時を知るという。 ところが日本国の今の世の学者は、あるいは法華経を抛って一向に称名念仏を行じ、 あるいは小乗の戒律を教えて、比叡山の大僧をあなどり、 あるいは教外別伝(きょうげべつでん)の法門を立てて法華の正法を軽んじている。 これらは時に迷っている者である。 たとえば勝意比丘(しょういびく)が喜根菩薩(きこんぼさつ)を謗(そし)り、 徳光論師(とくこうろんじ)が 弥勒菩薩をあなどって阿鼻地獄の大苦を招いたようなものである。 9 国を知る 日本国は一向に法華経のある国である。 たとえば舎衛国が一向に大乗の国であったようなものである。 またインドには小乗だけの国、大乗だけの国、大乗と小乗を兼ね学ぶ国もある。 日本国は大乗だけの国であり、大乗の中でも 441p 法華経の国であるというべきである。 (瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記に記している)。 以上のことを知る者が国を知る者である。 ところが今の世の学者が日本国の衆生に向って小乗だけの戒律を授けたり、 念仏者等だけにしているのは 「たとえば宝の器に穢(きたな)い食物を入れたようなものである」 (この宝器の譬えは、伝教大師の守護国界章にある)。 10 教法流布の先後を知る 日本国では欽明天皇の御代に仏法が百済国から初めて渡ってきてから、 桓武天皇の御代に至るまでの二百四余年の間は、この国に小乗や権大乗だけが弘まった。 法華経はあったけれども、その実義は、まだ顕れなかった。 たとえば中国に法華経が渡って三百余年の間は、法華経はあったけれども、 その実義はまだ顕れなかったのと同じである。 桓武天皇の御代に伝教大師が出られて、小乗や権大乗の義を破して法華経の真実義を顕して以来、 日本国の衆生は、異義なく鈍一に法華経を信ずるようになった。 たとい華厳・般若・深密・阿含等の大乗や小乗といった南郡六宗を学ぶ者であっても、 法華経をもって仏教の究極の教えとしていた。 ましてや天台宗や真言宗の学者においては当然のことであり、 それ以上に在家の仏法を知らない者においてはなおのことであった。 たとえば、崑崙山(こんろんざん)には宝石のみあって粗石がなく、 蓬莱山(ほうらいざん)には仙薬のみあって毒がないのと同じである。 建仁のころから今に至る五十余年の間に、 大日能忍や仏陀・仏地房覚晏(ぶっちぼうかくあん)が禅宗を弘め、 法然や隆寛(りゅうかん)が浄土宗を興し、実大乗たる法華経を破して権宗につき、 一切経を捨てて教外別伝(きょうげべつでん)の法門を立てた。 たとえば、法珠を捨てて石を取り、地を離れて空に登るのと同じである。 これらは教法流布の先後を知らない者である。 仏は涅槃経でこのことを誡められて 「悪象に値(あ)っても、悪知識に値ってはならない」と説かれている。 11 死身弘法を説く 法華経の勧持品には、後の五百歳、釈尊滅後二千年にあたって、 法華経の敵人が三種類あるであろう、と書き残されている。 当世は後五百歳の時にあたっている。 日蓮が仏語(勧持品の文)の実否を勘案してみるのに、三類の敵人がたしかにある。 この三類の敵人の存在を隠すならば法華経の行者ではない。 三類の敵人の存在を顕すならばかならず身命を喪(うしな)うであろう。 法華経第四の巻の法師品第十に 「しかもこの法華経は如来のおられる現在でさえ、なお怨嫉(おんしつ)が多い。 まして如来滅後の後においてはなおさらである」等と説かれている。 同じく法華経第五の安楽行品第十四に 「一切世間に怨(あだ)む者が多く、法華経を信じがたい」と。 また勧持品第十三には 「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」と。 同じく第六の巻の寿量品第十六には「自ら身命を惜しまず」と。 涅槃経第九には 「譬えば王の使で論議がよくできて方便に巧みな者が、王命をうけて他国に赴き、 むしろ身命を喪うことになっても、決して王の言った言葉や教えをかくさないのと同じである。 智者は凡夫の中において身命を惜しまず。かならず大乗方等を宣説すべきである」と。 章安大師はこの文を釈して、 「『むしろ身命を喪うともこの教をかくさず』とは、身は軽く法は重い。 ゆえに身を死(ころ)しても法を弘めよ」といわれている。 これらの本文を見れば、三類の敵人を 442p 顕さなければ法華経の行者ではない。 これを顕すのが法華経の行者である。しかしながらそうすればかならず身命を喪うことになろう。 たとえば師子尊者や提婆菩薩のようになるであろう。 二月十日 日 蓮 花 押
https://w.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/33.html
234p また梵天に生まれるには、有漏定(うろじょう)の引業の上に、 慈悲の行を加えて生まれるのです。 今、この貧しい女性が、子を思う慈悲心の故に梵天に生まれたのは、 通常のあり方とは違っています。 これについて章安の二つの解釈がありますが、 結局は子を思う慈悲心より他に何もありません。 思いを、 子供という一つの対境に集中する、これは定善(じょうぜん)に似ています。 ただひたすら子を思う、これはまた慈悲にも似ています。 ですから他の善根は無かったけれども梵天に生まれたものでしょうか。 また仏になる道は、華厳宗の唯心法界、三論宗の八不(はっぷ)中道、 法相宗の唯識(ゆいしき)、真言宗の五輪観(ごりんかん)なども 実際には叶うとは思えません。 ただ天台の一念三千こそ仏になる道であると思われます。 ところが、この一念三千についても、 私は少しも仏智をもって正しく悟っていません。 しかし、釈尊一代の経々の中では、 この法華経だけが一念三千の玉を抱(いだ)いています。 他の経々に説かれた教理は、玉に似た黄色い石です。 例えば、砂を絞(しぼ)っても油は出てこないし、 石女(うまずめ)に子が出来ない様なものです。 諸経は、智者でも尚、成仏出来ませんが、 法華経は愚人でも成仏の因を植える事が出来るのです。 「解脱を求めなくても、おのずから解脱に至る」等とはこの事です。 日蓮並びに我が弟子は、どの様な諸難があっても、 少しも疑う心がなければ自然に仏界に至るのです。 天の加護がないからといって疑ってはなりません。 現世の安穏(あんのん)でない事を嘆いてはなりません。 我が弟子にこの事を朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして皆 信心を捨ててしまった事でしょう。 おろかな者の常として約束した事を真(まこと)の時には忘れてしまうものです。 妻や子をかわいそうだと思うから、 現世の生き身で別れる事を嘆(なげ)くのでしょう。 しかし、幾度(いくたび)もこの世に生まれ経てきた長い間には 何度も妻子との別れはありましたが、 親しんだ妻子とは心ならずも別れたのでしょうか。 いつも同じ様な別れだったのです。 ですから、この度(たび)こそ、我が法華経の信心を破らないで成仏し、 霊山(りょうぜん)に参って、返(かえ)って妻子を導きなさい。 48 適時(ちゃくじ)の弘教を明かす 疑って言うには、念仏者と禅宗などに対して、 無間地獄へ堕ちるなどと言っているのは、争う心があり、 きっと修羅道に堕ちるでしょう。 また法華経の安楽行品に 「好んで人及び経典の過失を説いてはならない。 また他の諸々の法師に対して軽んじたり自分を慢(まん)じたりしてはならない」 等と説かれています。 あなたはこの経文に相違しているから天に捨てられたのでしょうか。 答えて言うには「摩訶止観」に次の様に説かれています。 「仏が弘経の方法を説かれたのに二つの説がある。 一には摂受(しょうじゅ)、二には折伏(しゃくぶく)である。 安楽行品に『他の長所・短所をあげつらうな』という様なものは、 これ摂受の意味である。 涅槃経に『刀や杖を持って、謗法の者の首を切れ』というのは、 これ折伏の意味である。 与(よ)・奪(だつ)即ち相手の主張を認める立場と、 真実を明らかにして相手の主張を退(しりぞ)ける立場と、 その方法は異なっているといっても、共に衆生を利益(りやく)させる」 等と。 これを解釈して「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」には 「仏が弘経の方法を説かれたのに二つの説がある等について、 涅槃経に『刀や杖を持って』というのは、 涅槃経の第三の巻に正法を護る者は五つの戒律を持たず、 行儀作法を修めなくても良いと説き、 及び下(しも)の文に 『仙予国王は謗法の首を切った』等と説かれた文。 又同じく涅槃経に 『新医(しんい)は乳薬(にゅうやく)を禁止して、 もし更に乳薬を用(もち)いる事があればその首を断つべきであると言った』 等の文。 これらの文は全て正法を破る人を折伏しているのである。 一切の経論(きょうろん)はこの摂受(しょうじゅ)・折伏の二つの方法を出ない」 等と説かれています。 「法華文句(ほっけもんぐ)」には次の様にあります。 235p 「問う、涅槃経には国王に法を親しく授(さず)け付嘱(ふぞく)して、 弓を持ち矢を持って悪人を挫(くじ)き屈服させよ、と明かしている。 この法華経安楽行品には、 国王・大臣などの勢力ある者から遠ざかり離れて、へりくだり慈善の心を持て、 と説いて、涅槃経の剛と安楽行品の柔は非常に相反(あいはん)している。 どうして異ならないであろうか。 答える、 涅槃経にはもっぱら折伏について論じているが、 仏は衆生に対して平等に我が子を思う一子地(いつしじ)に住しているのだから、 どうしてまったく摂受が無い訳があろうか。 この法華経の安楽行品にはもっぱら摂受について明かしているが、 陀羅尼品(だらにほん)では、 法華経の行者を悩ます者の頭を七分になすと説いている。 だから折伏が無い訳では無い。 この二経は 摂受・折伏の一端をあげているのであり、摂受・折伏は時によるべきである」 等と。 章安大師が著(あらわ)した涅槃経の解釈書には次の様にあります。 「出家した者でも在家の者でも、法を護るには、 その根本となる心の所作を第一ととり、 事相の形式的な戒律などは捨て、教理内容を中心に大経を弘(ひろ)めるべきである。 だから『正法を護持す』というのは 小さな道義・戒律などに拘(こだわ)らない。 それで『行儀作法を修めなくても良い』と言うのである。 昔は時代が平穏で、法がよく弘(ひろ)まったから、戒を持(たも)つべきであって 杖を持(たも)ってはならなかった。 今は時代が険悪で正法が隠れてしまっているから、 当(まさ)に杖を持(たも)つべきであり、戒を持(たも)ってはならない。 今も昔も、共に時代が険悪であれば、共に杖を持(たも)つべきである。 今も昔も、時代が平穏であれば、共に戒を持(たも)つべきである。 戒(かい)と杖(つえ)、即ち摂受と折伏は、 時代によって取捨(しゅしゃ)するべきで、一向にしてはならない」 等と。 あなたの不審は、世間の学者も多分道理だと思っています。 また、どんなに諫(いさ)めたとしても、 日蓮の弟子達でさえこの考えを捨てきれません。 一闡提人の様な状態なので、まず天台・妙楽らの解釈を出して、 彼らの邪(よこしま)な非難を防ぐのです。 一体摂受・折伏という法門は、水と火の様に相容れないものです。 火は水を嫌い、水は火を憎みます。 摂受の者は折伏を笑い、折伏の者は摂受を悲しみます。 しかし無智・悪人の者が国土に充満している時は摂受を先とします。 安楽行品に説かれた様にです。 邪智・謗法の者が多い時は折伏を先とします。 常不軽品に説かれた様にです。 例えば熱い時に冷たい水を用(もち)い、 寒い時に火を好む様なものです。 草木は太陽の眷属なので、冬の月に苦しみを受けます。 諸々(もろもろ)の水は月の所従(しょじゅう)だから、 熱い時にその本性を失うのです。 末法には摂受・折伏共にあるべきです。 いわゆる無智・悪人の悪国と、 邪智・謗法の破法の国の二種の国があるからです。 日本国の今の世は、悪国か破法の国かを知らなければなりません。 49 折伏を行ずる利益 問うて言うには、摂受でなければならない時に折伏を行じても、 折伏でなければならない時に摂受を行じても利益はあるのでしょうか。 答えて言うには、涅槃経に次の様に説かれています。 「迦葉(かしょう)菩薩が釈尊に申し上げて言うには、 如来の法身(ほっしん)は金剛石(こんごうせき)の様に絶対に壊れない。 しかし、まだその理由を知る事が出来ません。 どういう訳でしょうか、と。 釈尊は言われた。 迦葉よ、よく正法を護持した因縁によって、 この金剛身(こんごうしん)を成就する事が出来たのである。 迦葉よ、我は正法を護持した因縁によって、今この常住で壊れる事のない 金剛身を成就する事が出来たのである。 善男子よ、正法を護持する者は五つの戒律を受けず、行儀作法を修めなくても、 当(まさ)に刀や剣(つるぎ)・弓矢を持って正法を護(まも)るべきである。 戒律を持った僧が、摂受を行じて種々に法を説いても、 やはり師子吼(ししく=折伏の事)をなす事は出来ないし、 正法に背く悪人を降(くだ)し伏(ふく)させる事は出来ない。 この様な僧は、自分自身を利する事も、 236p 衆生を利する事も出来ない。 当に知るべきである、この輩はなまけ者である。 よく戒律を持ち、清浄な行を護(まも)っていると言っても、当に知るべきである。 この人は正法を護る為に何もする事はないであろう。 時に破戒(はかい)の者があって、 折伏を行ずる人の語(ご)を聞き終わって皆共に瞋(いか)り、 この法師を殺害したとしよう。 この説法をした者は、たとえ命が尽きたとしても、 尚、戒を持ち自分自身を利し他をも利す者と名づける」 等と。 章安は 「摂受・折伏は、時代によって取捨(しゅしゃ)するべきで、 一向(いっこう)にしてはならない」等と言い、 天台は 「摂受・折伏は時によるべきである」 等といっています。 例えば秋の終わりに種子をまき、田畠(たはた)を耕(たがや)しても、 稲や米を得る事は出来ない様なものです。 建仁年中(けんにんねんちゅう)に 法然(ほうねん)と大日(だいにち)の二人が出現して、 法然は念仏宗を、大日は禅宗を興(おこ)し弘(ひろ)めました。 法然が言うには 「法華経は末法に入れば 『未だ一人も得道した者は無く、千人のうち一人も得道出来ない』教えである」 等と。 大日が言うには 「仏の心は、経文の外(ほか)に別に伝えられた」 等と。 それ以来、この二つの教義が国中に充満しました。 天台や真言の学者らが、念仏や禅の檀那(だんな)に諂(へつら)い恐れる様は、 犬が主人に尾を振り、ネズミが猫を恐れている様なものです。 そして国王や将軍に宮(みや)仕えして、 仏法を破壊する原因、国を破壊する原因となる様な話をよく説き、よく語っています。 この様な天台や真言の学者らは、 今世には餓鬼道(がきどう)に堕ち、 後生には阿鼻(あび)地獄を招(まね)き寄せるでしょう。 たとえ天台の学者が山林に交わって一念三千の観念観法をこらしても、 真言の学者が静かな所で身(しん)・口(く)・意(い)の三密の修行を、 油をこぼさない様な思いで行おうとも、 時代や機根を知らず、摂受・折伏の二つの法門を弁(わきま)えなければ、 どうして生死を離れられるでしょうか。 問うて言うには、 念仏者や禅宗などを責め立てて彼らに怨まれる事は、 どんな利益があるのでしょうか、と。 答えて言うには、涅槃経に次の様に説かれています。 「もし善比丘(ぜんびく)が、仏法を破壊する者を見ても、そのまま見過ごして、 厳しく責め、対治(たいじ)し、その罪を処分しないならば、 当に知るべきである、この人は仏法の中の怨敵である。 もしよく対治し、厳しく責め、その罪を処分するならば、 これこそ我が弟子であり、真の声聞(仏の言説を正しく聞き、実践する人)である」 等と。 また章安の著(あらわ)した涅槃経の解釈書には 「仏法を破壊し乱す者は仏法の中の怨敵である。 相手の悪を諭(さと)す慈悲心が無くして、 偽(いつわ)って親しむ事は、これはかえって彼の怨敵である。 よくその悪を糾弾・対治する者は、これこそ護法の声聞であり、 真の我が弟子である。 彼の為に悪を除いてやる事は、即ちこれこそ彼の親である。 よく悪を厳しく責める者は我が弟子である。 悪を対治しようとしない者は仏法の中の怨敵である。」 等と言っています。 50 結勧(けつかん) 法華経の宝塔品を拝見しますと、 釈迦・多宝・十方分身の諸仏が来集されましたが、 それはどういう意味でしょうか、 「法を永久に存続させる為に、ここに来たのである」 等と説かれています。 釈迦仏・多宝仏・分身の諸仏の三仏が未来に法華経を弘めて、 未来の一切の仏子即ち一切の衆生に法華経を与えようと お思いになられた御心(おこころ)のうちを推(お)しはかってみますと、 その慈悲心は、父母がその一人の子の大苦にあっているのを見て 救おうと思う心よりも強盛であると思われます。 それなのに法然は労(いたわ)しいとも思わないで、 末法には法華経の門を堅く閉じて人を入らせまいとせき止め、 237p 狂った子を誑(たぶら)かして持っている宝を捨てさせる様に、 法華経を抛(なげす)てさせてしまった心はまったく恥知らずで乱暴に思われます。 自分の父母を人が殺そうとしているのに、それを父母に教えないでしょうか。 悪子(あくし)が酔い狂って父母を殺そうとするのを止めないでいるでしょうか。 悪人が寺や塔に火をつけようとしているのに、止めないでおれるでしょうか。 一人の子が重病なのに、炙(やいと)をしないでおけるでしょうか。 日本の禅と念仏者とを見て制止しない者は、 これと同じ様なものです。 「慈悲心が無くして、偽って親しむ事は、即ちこれはかえって彼の怨敵である」 等と説かれた通りです。 日蓮は日本国の諸人にとって、主であり、師であり、父母です。 しかし、一切の天台宗の人は日本国の諸人の大怨敵です。 「彼の為に悪を除いてやる事は、即ちこれこそ彼の親である」等と。 道心(どうしん)の無い者は生死を離れる事が出来ません。 教主釈尊は一切の外道から大悪人と罵(ののし)られました。 天台大師は中国の南三北七の諸宗に怨(うら)まれ、 更に日本の得一(とくいち)に 「三寸に足らない下で釈尊の教えを謗(そし)り、五尺の仏身を断つものである」 と言われました。 伝教大師は奈良の諸宗の人々に 「最澄は未(いま)だ唐の都を見ていない」などと言われました。 これらは皆法華経の故ですから、少しも恥ではありません。 愚人(ぐにん)に褒められる事こそ第一の恥です。 日蓮が御勘気(ごかんき)をこうむったので、天台や真言の法師達は 喜ばしく思っている事でしょう。 それは恥知らずな、奇怪な事です。 法華経を弘通する為に釈尊は娑婆世界に生まれ、 仏法の為に羅什(らじゅう)は秦(しん)に渡り、伝教は中国へ渡りました。 提婆達多や師子尊者は仏法の為に身命を捨てました。 薬王菩薩は臂(ひじ)を焼いて供養し、聖徳太子は手の皮を剥(は)いで経を写し、 釈迦菩薩は自分の肉を売って供養し、 楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)は骨を筆として法を書き伝えました。 天台は「時に適(かな)うのみ」等といわれました。 仏法の弘通は時によるべきです。 日蓮の流罪は、今世(こんぜ)の小苦なので少しも嘆(なげ)くには当たりません。 後生には大楽を受けるのですから、大変な喜びです。
https://w.atwiki.jp/komin/pages/6.html
【よく出る質問:現社編】 Q.参考書を教えて! A.とりあえず「面白いほど~」あたりが一般的だが、実物を見て自分に合うものを選ぼう。 Q.現社が一般入試で使える大学は? A.主な大学は以下の通り。 最新情報・正確な情報は、各大学の入試要綱を見てください。 中央大学経済学部、立命館大学文系、同志社大学文系。(使える日程・学部も決まっているので、必ず要綱を確認のこと。) Q.問題集は何をすればいいの? A.センター試験の過去問(5年分くらいが目安)をすること。 私大や二次で使う場合は、その大学の過去問も解いておこう。 解説も熟読して、完璧な理解を目指すこと。 (これらは最低限です。勿論、余裕があれば他の問題をやっても構いません)